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TOKYO●銀座② [a landscape]

雨の銀座.jpg

電柱に 止まりそこねて 暑さかな

いやぁ暑い日々が続いております。

こんなときは一日冷房のきいた部屋で過ごすのがいちばんなのでしょうが、そうもいきません。
徘徊老人は今日も逝く、じゃなくて往く。
場所と時間によっては目の前に続く道に日蔭がまったくなかったり。
ハレーションを起こさんばかりの道が延々と数百メートルも続いている。

若い頃だったらへのかっぱ。
でも、歳ですねぇ。普段曲がらない角を曲がっての日蔭探し。
結局は遠回りになって、陽射しを浴びる時間もさほど変わらなかったりして。

で、こんな酷暑の昼日中、銀座といえども人出は少ないんじゃないんでしょうかね。実際に行っていないのでわからないけど。

いまと比べてはるかに冷房のある店も少なかった昔の銀座。銀ブラ連はいかにしていたのでしょう。デパートや喫茶店あるいは、昼日中でもビヤホールなんかに避暑していたのでしょうか。
そして、日が落ちる頃、“お二人さん”は心地よい川風(昔は高層ビルもないから風通しもよかった)に吹かれながらメインストリートを一丁目方向へ、あるいは八丁目方向へそぞろ歩いて行ったのでしょうか。夜店の名残の屋台をひやかしながらね。

昭和40年代の初めの頃でしたか、銀座で生まれて初めて散水車なるものを見たのは。ということは確実に真夏ですね。今でもこの時期、散水車が出てるのでしょうか。数年前、四谷で見かけたから“健在”かもしれません。

ちょうどその頃、中学生のわたしは血のつながらない2歳上の“兄貴”のお供で銀座へ行ったことがありましたっけ。
そしてそこで兄貴は、ちょっと年上のキレイなお姉さんに声をかけられ、「イカしてる」だの「イイ靴はいてる」だのおだてられ、安っぽい紙製の映画鑑賞クラブの会員証と引き換えに、小銭を巻き上げられたのでしたっけ。

そんな40年代、歌謡曲の“聖地”として銀座はいまだ健在でした。
そんなわたしの中学時代である昭和40年代初頭に発売されたザギン・ソングをいくつか。

銀座ブルース 松尾和子&和田弘とマヒナスターズ
4月にリリースされたマヒナ・フィーチュアリング・レディの1曲。
レディはもちろん松尾和子。

松尾和子&マヒナといえば、昭和34年のレコード大賞曲「誰よりも君を愛す」がありますが、39年にはこれまた大ヒットとなった「お座敷小唄」も。

「銀座ブルース」はそれを受けてのレコーディング。もちろん大ヒットとなりました。
色っぽい松尾の和子姐さんはムード歌謡の女王でした。

設定はクラブのホステスと客。
この頃からこういう設定が多くなってきたような気がします。
右肩上がりの景気によって、サラリーマンにとって銀座のクラブやバーがサラリーマンにとってもさほど難攻不落の場所ではなくなってきていたのでしょうか。
もちろん、接待したりされたりの社用族ではありましたが。

それでも夜の蝶とお近づきになり、あわよくば……、なんて男ごころをくすぐったのでしょうね、こうした歌が。

この頃あたりはまだ「ムード歌謡」とは呼ばれていなかったと思いますが、その雰囲気十分で、この曲ものちにその範疇に入れられることになります。

ビクターといえば吉田メロディーですが、この歌の作曲は鈴木道明。ということは競作だったのかな。松尾&マヒナ以外の記憶はありませんが。

どこかジャジーな感じのするいかにも鈴木道明らしい曲で、アレンジもその線の寺岡真三

ちなみに鈴木道明の“東京関連”ヒット曲としては、ほかに「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」「赤坂の夜は更けて」が。

二人の銀座 山内賢、和泉雅子

「銀座ブルース」とほぼ同時期に発売されたベンチャーズのヒット曲。
このブログでも何回かとりあげた記憶がありますが、作詞は永六輔
ついでにいうとアレンジは第一人者で作曲家でもある川口

歌詞に出てくる「みゆき通り」は銀座の5丁目、6丁目、松坂屋本店の裏通り。
この歌がヒットする2年前、つまり東京五輪が開催された昭和39年、みゆき通りあたりにロングスカートやコッパンにズック、手には大きな紙袋といういでたちの男女が出没しました。彼らは「みゆき族」と呼ばれていましたが、オリンピックが終わり、秋風が吹くころにはどこへともなく……。
わたしのそばにもみゆき族の“兄貴”がいましたが、それはまたいつか。

ごぞんじのように山内賢は昨年亡くなりました。
そろそろ一年が経とうとしております。

数年前までナツメロの番組でよく二人の姿をみかけました。
あまり歌のうまくないマコさんでしたが、銀座育ちということもあってか、この歌はよくうたっていました。

でもこのうたはやっぱり彼、山内賢の歌であり、マコさんにはわるいけど、代打はきかない。だからマコさんもテレビで歌う機会がなくなっちゃうかも。さみしいこってす。

それにしても、北原三枝、芦川いずみ、浅丘ルリ子、吉永小百合、和泉雅子、松原智恵子……すごかったなぁ日活。(忘れちゃいけない太田雅子

雨の銀座 黒沢明とロス・プリモス

最後はムード歌謡コーラスの草分け。
わたしの記憶ではムード歌謡という言葉がつかわれ始めたのは、黒沢明とロス・プリモスの「ラブユー東京」からだったような。

リリースは昭和41年4月のことでした。
この1曲でロス・プリモスは全国区に。

♪七色の虹が 消えてしまったの
恋をなくした女性の歌ですが、聞きようによってはホステスさんの嘆きのようにも。
そんなところが、夜の蝶や、そのハンティングに夜な夜な彷徨う男どもに受けたのかもしれません。

「雨の銀座」は二番目のヒット曲。
銀座の街角で雨に濡れながら、おそらく来ないだろう彼を待つという、いかにも淋しい、歌謡曲にはうってつけの歌。

実はこの歌のリリースが、42年の11月。
ということは、つまり「ラブユー東京」が発売されてからヒットするまでに1年以上かかったということ。今の時代じゃ考えられない。……演歌ならあるか。

作詩は富樫政子
当時よくあった芸能雑誌の作詞コンペでの入選者。
その「涙でしあわせを」はロス・プリモスのシングル第二弾。
そのあとお嫁にいってしまったのか、フェイドアウト。

作曲は「ラブユー東京」に続いて中川博之
CMソングをつくっていた人で、歌謡曲デビューは「ラブユー東京」。
プロ野球でいったら、初打席でサヨナラ満塁ホームランを打ったようなもの。

でもビギナーズラック(一発屋ともいう)ではなかった証拠に、ロス・プリモスではやはり銀座ソング「たそがれの銀座」「恋の銀座」それに「さよならは五つのひらがな」があるし、それ以外でも「夜の銀狐」(斎条四郎)、「さそり座の女」(美川憲一)、サザン・クロス「足手まとい」「意気地なし」「好きですサッポロ」などヒット曲を多発。ムード歌謡をけん引したひとり。

YOU-TUBEの「雨の銀座」がすべてガセだったので、「たそがれの銀座」他をどうぞ。

雨……雨……雨……
雨は林檎の香のごとく
冬の銀座に、わが胸に、
しみじみとふる、さくさくと。

古い本のなかから見つけた北原白秋の詩「銀座の雨」の最後の一節です。

それにしても暑かった。
今日は銀座は銀座でも戸越銀座、五反田あたりを徘徊してまいりました。

こんなに暑いとシャワーというか、雨のひとつも乞いたくなります。
「戸越銀座の雨」なんてね。

残念ながら雨は降りませんでしたが、その代わりびっくりするものが降ってきた。
それがなんと蟬。

落下したというより、まさに天から降ってきた感じでアスファルトに激突。
実は昨日も同じ光景に立ち会いました。
なもので、もしかしたら、蝉の“集中豪雨”が来るかも、などと怖れながら空を見上げましたが、その心配はないようでした。蟬しぐれってヤツですね。意味が違うか。


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TOKYO●銀座① [a landscape]

銀座パレード.jpg

今日銀座をオリンピックのメダリスト(だけじゃないけど)たちがパレードしました。

テレビニュースで見ましたが、ものスゴイ人で。嘘か実か50万人だとか。
数年前にも読売ジャイアンツの祝勝パレードがありましたが、いいですよねこういうハデでノーテンキなイヴェントは。
平和な証拠。大事件があったり、大災害があれば自粛自粛で即中止。
“お祭り”ができるということは幸せだと思わなくては。全般的には。

銀座のパレードというのは、以前はよく行われていたようです。
とりわけテレビ前史である戦前とか、昭和20年代などは、行かなきゃ見れない祝賀パレードってなわけで、多くの見物客が集まったとか。

当時の花型スポーツのひとつだったボクシングなど、対戦する外国人選手と日本人選手が別々のオープンカーに乗って、試合前の宣伝を兼ねたお披露目をすることもたびたび。
それが世界タイトルマッチならいざしらず、いまじゃテレビの生放送さえしないという東洋タイトルマッチクラスでも“銀パレ”(こんな略し方ありません)し、そこそこの観衆が集まったそうです。

そんなわけで今日はとり急ぎ、東京シリーズ(やってんのかよ)は銀座の第一回目を。

銀座がタイトルにつく歌、あるいは歌詞に銀座が出てくる歌は“ご当地ソング”ではもちろんナンバーワンの多さで、ある本によればそれは1000曲以上だとか。そうかもしれないなあ。いやんなもんじゃないかも。
J-POPはほとんど知らないけど、原宿、渋谷は出てきても銀座は出てこないだろうなぁ。というより歌詞に地名を入れるのがもはや“ダサイ”のかもしれない。

それはともかく、そもそも銀座の歌の第一号は、「銀座雀」という歌。
大正八年に楽譜が出版され、十四年に鳥取春陽によってレコーディングされています。
作曲はかの中山晋平、作詞は劇作家の鈴木善太郎

森繁久彌の名唱で「銀座の雀」という歌がありますが、これとは別。
残念ながらYOU-TUBEにはないようで、

その後、モダンボーイ・西條八十が当時の銀座をみごとに活写した「当世銀座節」「東京行進曲」がでてくるのですが、それは後回しにして、今日は昭和30年代にヒットした“銀座の歌”を3曲。

銀座の蝶 大津美子 昭和33年

昭和30年の「東京アンナ」に次ぐ大津美子の大ヒット曲。
銀座の蝶とはバーやクラブ、キャバレーのホステスのこと。今では常識なのでしょうが当時としてはとても新しい言葉。
命名したのは作家の川口松太郎。雑誌の連載した銀座のホステスを描いた小説「夜の蝶」からそういわれるようになったとか。

流行歌が好んで描く女性の職業と言えば「水商売」。
彼女たちは一見派手で、バックグラウンドにはなにかいわくがありそうで、かつまたラヴアフェアー必至となれば、やっぱりヒロインになってしまうのでしょうね。

「銀座の蝶」の作詞作曲は横井弘桜田誠一。キングの主力で、ふたりのコンビとしては「川は流れる」(仲宗根美樹)や「君が好きだよ」(佐々木新一)などがある。

銀座九丁目水の上 神戸一郎 昭和33年

「銀座の蝶」とほぼ同時に発売されてヒットしたのがコロムビアの若手ナンバーワンだった神戸一郎のこの歌。

ロンドン五輪メダリストたちは中央通りを銀座一丁目から八丁目までパレードしたわけですが、九丁目は行かなかった。というか九丁目などはじめから存在しない。

作詩の藤浦洸がしゃれて八丁目の先の汐留川(これもいまはなく高速道路になっている)のことをいったもの。作曲は神戸の師匠の上原げんと
「別れたっていいじゃないか」ほか神戸のヒット曲以外でも、「東京の花売り娘」(岡晴夫)、「港町十三番地」(美空ひばり)、「逢いたいなァあの人に」(島倉千代子)、「東京のバスガール」(コロムビア・ローズ)、「美貌の都」(宝田明)などヒット曲は多い。

昭和33年は長島茂雄がジャイアンツに入団した年で、秋には現天皇、皇后のご成婚が発表されるなど、明るい話題で盛り上がってました。ほとんど記憶にない。

フランク永井の「西銀座駅前」もこの年で、同じく「有楽町で逢いましょう」も前年つまり32年の暮れに発売され、この年の大ヒットとなった。
しかし、西銀座(駅)はもはやなく、有楽町も銀座っ子にいわせると、「一緒にしないでくれ」とのことなので、番外としました。

銀座の恋の物語 石原裕次郎、牧村旬子 昭和36年

かつてのカラオケ・デュエット曲の定番。
「東京ナイトクラブ」(フランク永井、松尾和子)と双璧でした。

裕次郎主演で映画にもなった「銀座の恋の物語」。
わたしも観ましたが、この歌が主題歌となった映画は、実はその1年前に封切られたやはり、裕次郎主演の「街から街へつむじ風」だとか。

それがこの曲ばかりあまりにもヒットしてしまったので、アナザストーリーをつくって映画化したのだとか。
牧村旬子はいまでは、「じゅんこ」になっているそうだが、当時は「みつこ」だった。
「旬子」を「みつこ」と読ませるのは定着しなかったようです。むりだよ。

「みっちゃん」は元々キャンプなどで洋楽をうたっていて、17歳でテイチクにスカウトされ、いきなり裕次郎の相手役に大抜擢。
しかし、あまりにもこの歌のイメージが強すぎたのか、のちのヒットには恵まれていない。

♪心の底まで しびれるような
と牧村の声ではじまる歌に、「ふつう裕次郎からだろう」と、はじめレコード会社も異論を唱えたが、作詞の大高ひさおが「歌の流れからどうしても女性が先」と譲らなかったとか。
大高ひさおといえば、エト邦枝の「カスバの女」もそう。

作曲は日活の映画音楽を担当した鏑木創(はじめ)。
やはり日活映画の主題歌「男の怒りをぶちまけろ」(赤木圭一郎)がそうだし、テレビドラマの主題歌「少年探偵団の歌」も(勇気凛々ではないほう)つくっている。

昭和30年代なかばの銀座。
夜の蝶たちの生活には翳の部分もあったでしょうが、なんとなくそこにはまだ“純情”という言葉が生き残っていたような気がします。歌を聴くと。

経済成長の恩恵を受け、銀座の景気もどんどん良くなっていきます。それにつれて街の様子も外観ばかりでなく、変わっていきます。
次回はそんな昭和40年代の銀座へ行ってみよう、と思っています。


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TOKYO●東京'64 [a landscape]

東京の灯よいつまでも.jpg

オリンピックが佳境です。

ただ各局のメダリストたちの生出演には辟易。どこか一局というわけにはいかないのかな。
選手たちも内心ツライものがあるのでは。同じ質問に同じ答え。

柔道、水泳は終ってしまいました。
期待していた柔道は金わずかに1個。正直ガッカリ。

「2番ではいけませんか」という声が聞こえてきそうですが。
まぁ、こちらの勝手な期待でしたが。男子はともかく女子は軽量級の福見、中村をはじめ3~4個の金メダルを期待してたので残念。
松本薫が反則勝ちしなければ、金ゼロの可能性だってあった。

その金ゼロだったのが水泳。ただこちらは想定内。

もちろんメダルを獲っても獲れなくても選手たちには拍手拍手なんだけど。どうも、柔道はいまだ“お家芸”という呪縛が。

柔道が初めてオリンピックの正式種目になったのが昭和39年(1964)の東京五輪から。
当初は、軽量、中量、重量、無差別の体重別4クラスでした。また男子のみで女子はまだなかった。
日本はそのうちの無差別級をのぞく3階級で金メダルを獲得。残る無差別級は神永がヘーシンクに敗れての銀メダルでした。

ちなみに水泳は唯一男子4×200mリレーでの銅メダル1個という低迷ぶり。

話はとびますが、今日8月6日の広島の式典を中継していたのはNHK唯一。
民放はこぞってフェンシング団体の銀メダルとボルトの2連覇にうかれ興奮しておりました。
まぁ、時代の流れといえばそうですし、ある意味これが健全なかたちなのかもしれません。

そんなわけで、このところ、小雨模様(ポツポツ)ですが続けている“東京の歌”は東京オリンピック開催の年、つまり昭和39年(1964)のヒット曲を。

「東京の灯よいつまでも」 新川二郎
♪雨の外苑 夜霧の日比谷
という思わず情景が浮かんでくる歌い出しが印象的。
3番に羽田空港が出てくるのも、空の旅時代を予兆した当時の気分が伝わってきます。
歌い手は石川県出身で、その2年前「君を慕いて」でデビューした新川二郎。

東京で一時暮し、やがて故郷へ帰っていった人たちの思い出の歌、という印象が。亡くなった作家の立松和平さんが、以前テレビでこの歌をフェヴァリットソングにあげていた。

作曲は佐伯としお。ほかでは三橋美智也「センチメンタル・トーキョー」、「東京見物」、三船浩「東京だより」がある。
作詞は昨年亡くなった藤間哲郎大津美子「東京アンナ」、デュークエイセス「東京808」など。

「サヨナラ東京」 坂本九
永六輔、中村八大の、いわゆる六八コンビの作品。
東京オリンピックに合わせて作られた楽曲で、オープニングの10月にさきがけて7月に発売。
「始まる前からサヨナラかよ」と突っ込みたくなりますが、スポーツの祭典も2週間あまりで終る、そのときのために……と思ったかどうかはしりませんが、永さんらしいといえばらしい歌。

「ウナ・セラ・ディ東京」 ザ・ピーナッツ
恋のバカンス」「ふり向かないで」などと同じく詞・曲は岩谷時子・宮川泰のコンビ。

前年に「東京たそがれ」でレコード化したがヒットせず、タイトルを変えたリメイク盤がヒット。ビギンのリズムのポップ感が当時はとても新鮮だった。
また和田弘とマヒナスターズ西田佐知子、イタリアのミルバらの競作でした。

良き楽曲はカヴァーされるの理どうり、ほかでも越路吹雪、フランク永井、石原裕次郎、美川憲一、井上陽水、園まり、カテリーナ・バレンテらがレコーディングしている。

「東京ブルース」西田佐知子
和製ブルース数々あれど、屈指の名曲で、ブルーズ(憂鬱)というよりは“女のニヒリズム”が漂っている。
戦前、ブルースの女王・淡谷のり子がうたった「東京ブルース」とは同名異曲。

作詞作曲は彼女の代表曲「アカシヤの雨がやむとき」と同じく、水木かおる藤原秀行
このコンビのヒット曲にはほかにド演歌「裏町酒場」、抒情歌「エリカの花散るとき」、コワイ女の「死ぬまで一緒に」などが。

またほかでも、東京の鉄道や駅をうたった「恋の山手線」(小林旭)「ああ上野駅」(井沢八郎)がヒットしたのも47年前のオリンピックイヤー。

ふたたびロンドン五輪の柔道の話。

テレビの放送がさほど深夜に及ばなかったので、ほんとんどの階級での日本人選手の試合は見ました。
つらつら思ったのは、柔道という格闘技が年々つまらなくなっているということ。

立ち技での一本勝ちが激減していることもそうですが、明確な根拠のとぼしい「指導」なるものによって勝敗が左右されてしまうという理不尽さ。
なかには「指導」狙いで試合を運ぶ選手も。解説者も“唆す”ようなこと言ってました。

よほどの実力差がないかぎり、ほとんど技がかからずに試合が終わることも。ワザが決まっても受け手が腹ばいになればポイントなしというのも納得がいかない。

もうすこしポイントの基準を明確化(視聴者でも分かるように)するとか、延長戦でははじめからの組手を義務化するとか、ルールを見直さないと本人たちは一生懸命たたかっているのに、見ていて少しもおもしろくない試合ばかりになってしまっている。
そのことはファンばなれにつながる。

それと十字固めを含めた関節技は禁止したほうがいいと思う。それも技術のひとつとは思いますが、キケンでひとつ間違えれば大けが、後遺症につながりかねない。

ファンゆえの苦言ということでここはひとつ。

もひとつオマケに。
サッカーがメキシコ以来44年ぶりのメダル、と話題になっていますが、ボクシングでもバンタム級の清水聡がメダルを確定して、やはりメキシコ依頼の快挙を達成しました。

明日早朝にはミドル級の村田諒太の2戦目があるし、ウェルター級の鈴木康弘も残っているし。夜更かし(最近ことさら辛い)の日々が続きます。


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TOKYO●東京ワルツ② [a landscape]

井上ひろし.jpg

♪燃える夜空の ネオンは移り気
 捨てられた 花束が 泣き濡れて
 七色の雨に 歌う ああ 東京ワルツよ
 メトロで帰った君よ 君よさようなら
 ………………
(「東京ワルツ」詞:西沢爽、曲:服部レイモンド、歌:井上ひろし、昭和36年)

前回でふれたように、西沢・服部コンビの「東京ワルツ」のオリジナルは昭和29年、コロムビアの新人千代田照子によってうたわれたもの。

昭和29年という時代。
敗戦から9年目。
東京にはいまだその残滓がみられた。焼跡こそほとんど消えていたが、そのあとの原っぱには防空壕の残骸があったし、駅前で靴みがきの子供や傷痍軍人の姿をみかけることは、ごくあたりまえのことでした。

それでもプレ経済成長期であり、東京の街は空襲以前にも増してモダンな様相に再構築されていきました。
ひと昔前の敵国アメリカから金髪の美女マリリン・モンローが来日し、街頭テレビではアメリカのシャープ兄弟と力道山が喧嘩まがいの試合(実はなれ合いなのだが)を行い、観客は神業・空手チョップに留飲を下げていたり。

10年前ほんとうに日本はアメリカと戦争をしていたのだろうか。
鬼畜米英を叫び、一億総玉砕も辞さずという大和魂で臨んだあの“大喧嘩”の遺恨がわずか10年で霧散してしまうものだろうか。
そんな疑問が浮かぶほど、日米の関係は修復されてしまっていました。
そのおかげで、日本の驚異的な経済発展がはじまることになるのですが。

西沢爽が書いた「東京ワルツ」には、そうしたプレ経済成長期の東京の断片がちりばめられています。

日本一の歓楽街のナイトライフは完全に復活し、おびただしいネオンのまたたきが男女の本能を刺激する。

東京の地下鉄は、昭和2年の銀座線にはじまるのですが、この29年、戦後初の路線として丸ノ内線が開通。サラリーマンにとっては通勤ばかりでなく、ナイトライフにも欠かせない“足”がふえたことになったのです。
そしてこのあと、東京の地下はモグラが爆走するように掘り進められ、いくつもの路線が誕生していくことになります。

♪メトロで帰った君よ
とうたわれた、「君」はオリジナルでは男のこと。昭和30年代あたりまでは、女性も愛しい男性のことを「君」と呼ぶことがめずらしくなかった。

楽しいデイトが終り、地下鉄で家路につく彼氏を彼女がホームで見送るというストーリー。ふつう逆のような気もしますが、そういう男女関係があったって不思議じゃない。

でも見送った彼女はどこへどうやって帰ったのか。
もともと都心に住んでいたのか。はたまたデイトではなくホステスさんで、店を抜け出して思い入れのある客を見送りに来たのか。まぁ、余計なことですね。

街角に捨てられた花束。これも時代を反映しています。
当時歓楽街には“花売り娘”と呼ばれた女の子が生活のため、酔客相手に花を売っていたのです。♪花を召しませランララン なんてね、違ったかな。

そして、鼻の下をのばしたオヤジどもが気前よくそのブーケを買い求め、気に入ったバーやキャバレーのホステスにプレゼントするのです。もちろん無償の行為なんかじゃないんだけど。

女は誰でも花をもらえば喜ぶと思ったら大間違い。
なかには、男を捨てるようにポイと路上に投げ捨てるお嬢さんだって。

また、東京の街のあちこちでビルが建ちはじめ、それがまさに復興の象徴でした。
それでも現在のような高層ビルなどなく、日本一の高さをほこるビルヂングは丸ビルの9階。建築基準法でそれ以上はご法度だった。

いまでは何のことはない話ですが、当時は大きなガラス窓があるビルではたらくことがモダンであり、昭和29年という時代の最先端をゆく東京人のステイタスだったのでしょう。

そして、再びそんな歓楽街にうごめく男と女。
それは客とホステスという関係かもしれないが、つきつめれば男も女も愛情を求め、愛情に飢えている可愛い存在であることは今も昔もなのです。

“疑似恋愛”の終った夜ふけ、疲労感に足をひきずりながら帰る男にも女にも、夜空の星たちが(当時の夜空は今よりはるかに星が瞬いていた。多分)、「きっと明日はいいことがあるぜ」と囁きかけてくれているよう。

そんな歌が「東京ワルツ」。


昭和29年、もちろんわたしは生まれていたが、ヨチヨチ歩きでほとんど記憶もない頃。

それでも、この歌を聴くと、昭和29年、20代のサラリーマンであるわたしが夜な夜な東京を彷徨っている光景が浮かんでくる。それが不思議と心地よい。
だから好きな歌でもあるのですが。

実は、西沢爽はとても好きな作詞家で、今日7月19日は彼の命日。
彼が近世歌謡に関する大書を著し、博士号を得たことや、作詞家以外でも数々の類まれなる才能を発揮したことに興味のある方は、ウィキペディアでも見ていただくことにして、今回の主題である、西沢爽の「東京ワルツ」以外のフェヴァリットソング5曲を、短い?能書きとともに紹介してみたいと思います。

さすらい(小林旭)昭和35年
日活映画「さすらい」の主題歌。
映画は観てませんが、歌は憂愁たっぷりでいいです。
アキラの“流れ者三部作”のひとつ(と勝手に呼んでます)。

西沢爽の歌詞はとにかく暗い・昏い・クライ。
29歳と決して早くない作詞家デビューの41歳のときの歌。
どれほど暗い青春(たしかに戦争真っ只中だった)を送ってきたのかと思ってしまう。

日本人の憧憬である「流れ者」、「漂泊者」の歌ということもありヒット。個人的には小林旭の代表曲。ほかでは「ギターを抱いた渡り鳥」をはじめ「アキラのダンチョネ節」、「アキラのズンドコ節」など「アキラの」と冠がつく歌のほとんどが西沢の作詞。

曲はパブリック・ドメイン、つまり伝承歌というより日本のクレジットでは「作者不詳」。
編曲(これが素晴らしい)の狛林正一が補作しています。

ひばりの渡り鳥だよ(美空ひばり)昭和36年
思わずバカ踊りをしたくなるようなノリのいい歌。それでいて哀愁がこもっている。
こういう歌はすきだな。三波春夫「チャンチキおけさ」と双璧。

もちろん美空ひばりのなかではナンバーワン。
西沢爽の「股旅もの」はめずらしい。
戦前から戦後も昭和30年代前半あたりまでは歌謡曲のなかでも「股旅もの」「時代もの」は盛んでした。

高度経済成長とともに映画のなかでもまず時代劇が斜陽となり、それとともに流行歌の時代もの、とりわけ股旅ものも廃れていきました。
大ヒットということでいえば昭和35年の「潮来笠」(橋幸夫)が最後でしたか。
平成になって演歌の星・氷川きよし「箱根八里の半次郎」で奇跡の一発をかましましたが。

「ひばりの渡り鳥だよ」は「潮来笠」の翌年のリリース。
曲は、前述の狛林正一。ドドンパのリズムが時代を感じさせる。そのノリのよいアレンジは若き日の市川昭介

ひばりの歌も数多く作詞している西沢爽ですが、ヒット曲では「波止場だよお父っあん」「ひばりの佐渡情話」がある。

恋しているんだもん(島倉千代子)昭和36年
ひばりよりも詞を書いた数が多いのが島倉千代子。
初のヒット曲が昭和33年の「からたち日記」。その後名コンビとなる遠藤実(当時は米田信一)の作曲。

翌年には船村徹と組んだ「哀愁のからまつ林」がヒット、そして36年には「思い出日記」(遠藤実)さらに市川昭介との「恋しているんだもん」と続く。

この幼児言葉をつかったハッピーカマトトソングがヒット。
♪小指と小指からませて
♪地球もちいちゃな星だけど 
と当時としては歌詞がユニーク

その後もお千代さんとのコンビで、「星空に両手を」(with守屋浩)、「ふたりだけの太陽」、「涙の谷間に太陽を」などのヒットを。

仲間たち(舟木一夫)昭和38年
昭和30年代後半になると青春歌謡全盛に。当時のコロムビアの看板といえば舟木一夫。
その舟木一夫では3つの西沢爽のヒット曲がある。
38年の「仲間たち」、40年の「ああ青春の胸の血は」、おなじく「あありんどうの花咲けど」の3曲。作曲はいずれも遠藤実。

どれも抒情作詞家・西沢爽の本領が発揮された名作ですが、今回はいちばん古い「仲間たち」を。
「下駄を鳴らして」とか「帽子まるめて」とバンカラ学生が描かれているが、この歌がつくられた昭和38年にはほぼ絶滅していたはず。
当時40代半ばの西沢にしてみれば、戦前の自身の学生生活をノスタルジックに書いたものなのでしょう。おそらく。(それから10数年後でも、♪下駄を鳴らして奴がくる なんて歌がつくられてるんだから、いいよね)

おさらば故郷さん(加賀城みゆき)昭和41年
さいごは昭和40年代のこの歌を。

加賀城みゆきはその名のとおり、金沢の出身。
金沢生まれの先輩と飲んで、ナツメロの話になると必ず彼女の名前が出てきます。なんでも高校の同級生だったとか。それはともかく。

千代田照子や島倉千代子と同じく、コロムビアの歌謡コンクールで優勝。
翌年19才のデビュー曲としてうたったのがこの「おさらば故郷さん」。
曲は新宿ブルース」(扇ひろ子)和田香苗

東京生まれの西沢爽が、忘れがたき故郷をしのびつつ都会で生きていく女性の複雑な気持ちを書いています。
なによりも44歳という若さで亡くなった加賀城みゆきの声と歌唱がすばらしい。生きていれば60代なかば。きっと演歌の頂上にいたはず。

いつものごとく長くなりすぎましたが、まだまだヒット曲の多い西沢爽。
とりあげることができなかった好きな曲をせめてタイトルだけでも。(聴きたい方はYOU-TUBEで探してみてください)

リンゴちゃん(神戸一郎)、ひとりぼっちのガキ大将(北原謙二)、哀愁海峡(扇ひろ子)、明日は咲こう花咲こう(吉永小百合、三田明)、女の爪あと(水原弘)、青春の城下町(梶光夫)、「春を待つ少女」(安達明)…………。


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TOKYO●東京ワルツ① [a landscape]

井上ひろし02.jpg

「○○東京」、「東京○○」という歌がいかに多いかということは前々回ですこしふれましたが、そのなかに楽曲の様式やリズムの種類がくっつくこともよくある。

たとえば、これも再三例にだしますが流行歌の嚆矢「東京行進曲」(佐藤千夜子)がまさにそう。
ほかにも、戦前ならば「東京ラプソディー」(藤山一郎)があるし、「東京セレナーデ」(二葉あき子)山口淑子「東京夜曲」(セレナーデ)もある)、あるいは「ルンバ東京」(由利あけみ)などが。

戦後ではなんといっても「東京ブギウギ」(笠置シヅ子)
また他のご当地ソングでも人気のブルースは「東京ブルース」として戦前の淡谷のり子、戦後の西田佐知子盤がある。

そして今回ピックアップした「東京ワルツ」も戦後の歌。

「東京ワルツ」というタイトルの歌はいくつかあるようで、もっとも古いのは昭和27年に洋楽カヴァーの「テネシー・ワルツ」をヒットさせて“ワルツの女王”になった(かどうかしらないけれど)江利チエミが翌昭和28年にキングでレコーディングした「東京ワルツ」

作詞作曲は、「憧れのハワイ航路」(岡晴夫)「赤いランプの終列車」(春日八郎)の作曲で知られる江口夜詩

楽しい思い出の追憶ソングで、聴いてわかるとおり、あきらかに「テネシー・ワルツ」の影響が感じられます。

その翌年、つまり29年に発売されたのがコロムビアの「東京ワルツ」
うたったのは、コロムビアの新人コンクールで優勝した千代田照子
低音で感情過多とも思える泣き節が印象的です。

ただ歌手活動は短かったようですぐに引退(結婚でもしたのかな)。
なんでも、彼女の子供たちは芸能活動をしていた(いる?)ようで、そのうちのひとりがワイルドワンズに後年加入した渡辺茂樹だと、どこかのブログに書いてありました。

作詞は西沢爽。まだ新人の頃で本名・西沢義久のクレジットで。
作曲は戦前からのコロムビア専属で、昭和26年久保幸江のお座敷ソング「ヤットン節」がヒットしたレイモンド服部(服部レイモンドとも)。ハーフでもなんでもなく純日本人で本名は服部逸郎。

NHKのアナウンサーから作曲家になった異色で、30年代には小坂一也の「ワゴン・マスター」がヒット。中島そのみ、コロムビア・ローズ、富永ユキ、並木路子、前田通子らに楽曲を提供した。
オールドファンなら懐かしい小坂一也のTV主題歌「無敵のライフルマン」も服部の作。

そして、この「東京ワルツ」はそれから7年後の昭和36年、当時のリバイバルブームにのって井上ひろしがカヴァー。そこそこヒットした。

当時の東京の雰囲気や恋人事情が彷彿されるフェイヴァリットソング。

そのあとも藤圭子キムヨンジャ&鳥羽一郎で「東京ワルツ」がつくられましたが、もう1曲特筆したいのが、由紀さおり「TOKYOワルツ」

耳にのこって思わず口ずさんでしまう曲は、昭和50年代のメロディーメーカー・宇崎竜童による。失恋女の愚痴を口当たりの良いストーリーに仕立てたのがなかにし礼(休業中ですが、だいじょうぶなのでしょうか)。
個人的には世界の由紀さおりのなかにあっても十指に入る名曲です。

そういえば、以前、東京駅の発車チャイムに「東京ワルツ」がつかわれていた、という話を聞いたことがあるのですが、どの「東京ワルツ」なのでしょうか。実際に聞いたことはないのですが。

それはそれとして、千代田照子の「東京ワルツ」をリメイクした井上ひろし。
ごぞんじの方もいるでしょうが、ロカビリー出身で水原弘、守屋浩とともに“三人ひろし”と呼ばれていました。甘いマスクで女性ファンが多かった。
三人それぞれがロカビリーの嵐が去ったあと、歌謡曲でヒット曲をだしたのだからたいしたもの。

井上ひろしの最大のヒット曲はこの「東京ワルツ」ではなく、やはり戦前のリバイバルの「雨に咲く花」。そのほかにも「並木の雨」、「別れの磯千鳥」、「山のロザリア」、「幸せはここに」など、リメイク盤うたっていました。
もちろんオリジナルでも「地下鉄(メトロ)は今日も終電車」とか「煙草が二箱消えちゃった」などの小品がありましたが。

残念ながら44歳で早世。
生きていれば70歳をちょい越えたところ。水原弘も42歳の若さで。
夭折した人間というのは、俳優・歌手にかぎらず悲哀感がついてまわりますが、太く短くというのであれば、それはそれで。

「長生きも芸のうち」というけれど、それはあくまで健康であってのこと。半年前に認知症で寝たきりの母親を看取った経験からいいますと、少なくとも自分に関しては延命治療は絶対にNO。
そろそろだなと思ったら、それこそ内外のワルツなどを聴きながら、あちらの世界へズンタッタズンタッタとフェイドアウトしていきたいものだと思っております。


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TOKYO②東京の人 [a landscape]

ザ・ピーナッツ.jpg

東京人」という雑誌もありますが、そもそも東京人とは東京出身者ばかりでなく、東京で生活する人のこと。住民登録の有無は関係なく。

しかし、地方の学校を卒業し、東京の会社に就職してまだ半年なんて新人が「わたし東京の人間なんです」とはいささかいいにくいのでは。
本人だって、それぞれの出身地を大切にしているだろうし、「口が裂けても東京人なんていわない」なんて人もいるだろうし。
とりわけ、その対極?にある「大阪人」あるいは「関西人」はなおさらでしょう。

しかし、狭い日本、どこで住もうと「ニッポン人」でいいだろうという思いもありますが。

ことさら出身地や居住地の「東京」が強調されるのは、それが首都であり、政治・経済・文化の中心地であり発信地だから。あたりまえだけど。

そもそも東京がビッグシティになったのは、ごぞんじのように徳川幕府が誕生してからで、鄙びた武蔵野の地に全国各地から入居者が殺到し、あっという間に大都市江戸が形成されていったことは小学生でも知っている。

とりわけ商売・経済の中心となった日本橋界隈には畿内からの移住者が多く、彼らは好んで「伊勢屋」、「近江屋」などと出身地を屋号とした。
新天地に就き、旧習にしばられることなく新しい生き方を追求する彼らの生活の中から独自の生活様式や文化が生まれてきます。それがイキだのイナセだのという江戸文化ということになるのでしょう。

ということは、江戸っ子、さらには「東京人」の多くは、元をただせば「畿内人」、大雑把にいえば「関西人」ということになる。
となると、やっぱり「関東だ」「関西だ」という張り合いが滑稽にみえてきます。

とはいえ、ローカリズムをまったく無視することはできないし、以前ほどではないにしても「東京の人」というのは、それ以外の地域の人間からはいささか別格(良い意味ばかりじゃないよ)のイメージがあるようだし、「東京人」本人たちもそのことにプライドを持っている人間が少なくない。とりわけ「東京人」が仕事や遊びで地方へ行ったときそうした意味のない“特権意識”が見え隠れしたり。

もちろん「東京人」でありながら、そうしたプライドのかけらもなく、事情が許せば(これが許さないんだ、なぜか)一刻も早く東京を脱出し、石原閣下に「東京人」を返上したいと思っている人間だっているはずです。わたしのように。

そうしたプライド高き「東京人」の歌、というわけではありませんが、流行歌でうたわれた「東京人」をいくつか。例によって昭和30年代、40年代の旧い歌です。

まずは、お千代さんの泣き節。個人的には昭和30年代を代表する女性シンガーは美空ひばりではなく島倉千代子なのですが。それはともかく。

「東京の人さようなら」 島倉千代子 昭和31年

昭和30年「この世の花」でデビューした島倉千代子の翌年のヒット曲。
「この世の花」同様、同名映画の主題歌。当時からこうした映画とレコードのメディアミックスはあたりまえのことでした。
映画は観ていませんが、ほぼ歌のストーリーをなぞるもので、地元の娘と東京からやってきた青年とのなさぬ仲の物語というわけ。

作曲は戦前から活躍した竹岡信幸。代表曲は「人妻椿」(松平晃)「赤城の子守唄」(東海林太郎)など

作詞は近年亡くなり、このブログでもとりあげた石本美由起

こういう歌や映画がヒットするということは、当時の地方の若い女性にとって「東京人」は憧れの人物像だったのでしょう。
その伝でいえば当時、船乗りあるいはマドロスさんも女性にとっては“夢見る異性”だったのかもしれません。船乗りへの憧憬は“流れ者求愛”に通じる。蛇足ですが。

つぎもやはり、敗戦国日本が復活宣言をした昭和31年の作。

「東京の人」三浦洸一 昭和31年

これも同名映画の主題歌。
ただこちらは川端康成原作という文芸作品。配給は日活。

映画のデータをみてみると監督は西河克己。「青い山脈」、「伊豆の踊子」、「絶唱」と日活青春文芸路線のメイン・ディレクター。
70年代に入って日活が路線変更しても、東宝で山口百恵というヒロインを得て、いくつかのリメイク版をつくっていましたっけ。

歌のほうは吉田正、佐伯孝夫のビクターゴールデンコンビ。
うたったのは28年に「落葉しぐれ」、30年には「弁天小僧」をヒットさせ、ビクターの主力になりつつあった三浦洸一
「東京の人」もヒットしましたが、翌年、ふたたび川端康成の原作である「踊子」をレコーディング。これまた大ヒットに。

派手なアクションや、大げさな表情も用いずに淡々とうたう歌唱は清潔感にあふれたいました。昭和20年代デビューの歌手にはこうしたタイプが少なくなかったような気がします。

また曲もいいけど詞もいい。東京の街は、東京駅(のあったところ)で生まれたという佐伯孝夫が最も得意とする舞台。
3番ある詞の最後の部分は共通で♪しのび泣く 恋に泣く 東京の人 
ですが、それまでの歓楽街を並べた表現から転調しちゃてる。これが序破急の「急」(ウソです)。とにかく意味が通じないのがいまも昔も流行歌。

いずれにしても、辛い恋にしのび泣いているのですから、東京の人は女性(偏見?)。

3つめは、最近亡くなった伊藤エミさんと妹のユミさんの双子デュオ、ザ・ピーナッツの名曲。
「東京の女」 昭和45年

恋をなくして東京をさすらう女の嘆き節。
一人称あるいは三人称の「女」なのだから「ひと」はオカシイダロと思うのですが、まぁ
そこは何度もいうようですが、流行歌なもので。

曲は元のダンナさん沢田研二。詞は「翼をください」、「学生街の喫茶店」山上路夫

沢田研二は自身のアルバム用だけでなく、他の歌手や役者にいくつも曲を提供していますが、ヒットしたというか知られているのはこの「東京の女」とアン・ルイス「ラ・セゾン」ぐらい。
ザ・ピーナッツは、同じ年に橋本淳・中村泰士作の「大阪の女」もうたって、バランスをとっている?。

ところで「東京の女」、「大阪の女」とも「おんな」ではなく「ひと」と読ませますが、いまはどうかしらないが、ひところとても流行った。

よく知られているのは北島三郎函館の女」、「薩摩の女」、「加賀の女」、「博多の女」などの「女(ひと)シリーズ」。
もっとも古いのが「函館の女」で昭和40年。
ではこれがはじめかというとそうでもない。

その2年前の昭和38年に春日八郎「長崎の女(ひと)」をうたっている。ご当地ソングが名称はともかく、いわれはじめたのもこのころからじゃなかったか。

最後にオマケで歌詞に「東京のひと」が出てくるこの歌を。
そういえばザ・ピーナッツにもそれと同名異曲のすばらしい歌がありましたっけ。


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TOKYO①ずばり東京 [a landscape]

霞ヶ関交差点から議事堂.jpg

ちょっと(どころじゃないな)前のことですが、新聞に紙面の4割あまりをさいて「東京ソング」のことを取りあげていた。

なんでもJポップで「東京こんぴ」という「東京」というタイトルの歌を集めたコンピレーションアルバム が発売されたことがキッカケになったようだ。
その「東京コンピ」にはくるりをはじめ、サニーデイ・サービス、BEGINなど13曲の「東京」が入っているとか。

で、さらにその記事によると、「東京」あるいは「TOKYO」という楽曲がJSRAC(日本音楽著作権協会)には260曲あまり登録されているのだとか。
さらにさらに、「東京~」とか「~東京」のようにタイトルの一部に「東京」、「TOKYO」の入る楽曲は2000を超すのだそうだ。
もちろん、“ご当地ソング”ということでいえばダントツの日本最多になる。

さらにいえば、「有楽町で逢いましょう」をはじめ「浅草姉妹」、「あゝ上野駅」、「コモエスタ赤坂」、「新宿育ち」、「池袋の夜」、「六本木心中」、「たそがれの銀座」など、これみな東京ソングです。

さらにさらにいえば、かの「神田川」だって「アメリカ橋」だって「一本道」だって「恋の山手線」だって「別れても好きな人」だってみ~な東京の歌。

思い起こせば(大げさですが)、ラジオとレコードによって流行歌というものが巷にながれはじめた昭和初年、一大ヒット曲となったのが佐藤千夜子うたうところの「東京行進曲」でした。
それからどれだけ東京ソングがうたわれてきたことか。

そんなこんなでここしばらくは、いつかやろうと思っていた東京の歌をとびとびにでも。

第一回めはすばり「東京」
つまり、前述した260あまりあるという頭も尻尾もない「東京」をタイトルとした歌。

「すばり東京」といえばそういう題名の開高健のルポルタージュがありました。
昭和38年から東京五輪が開催された39年の秋までのさまざまな「東京」の断面を切り取った取材記事でした。
深夜喫茶、トルコ風呂といった風俗から新時代の象徴東京タワー、戦争の残香しみつく上野駅などなど、豊かさを求めてスピードアップしていく当時の日本、日本人(あるいは東京、東京人)の姿が描かれていました。

閉塞状況の現代にあって、約半世紀前の“己が姿”をみることにどんな意味があるのかははかり知れませんが、それは紛うことなく、われわれの父母あるいは祖父がつくり、平成24年の東京のベースになっている街ではありました。

またまた脱線模様なので急ブレーキをかけ右折してメインストリートへ。

ずばり「東京」の1曲目。

「東京」マイ・ペース 
フォークソングというのか、ニューミュージックというのか、とにかく政治の季節が終わってメッセージソングは後退し、「LOVE & PEACE」という流行歌の王道が主流になっていた時代、昭和49年(1974)のヒット曲。

東京に住む彼女と地方の彼との遠距離恋愛をうたったものでしょう。
それは昭和30年代の「お月さん今晩は」「僕は泣いちっち」とほとんど変わらない恋愛ゲーム。10年じゃ変わらないか。

現在はそれからさらに40年近く経っている。
完全に変わった、と思うな。なんだかしらないけど恋愛のスピード感がまるで違うような。それに濃度がなんとなく希薄なようで。
それが平成の恋ってやつか。21世紀の愛ってやつか。そうかもな。

とにかく著名なミュージシャンは「東京」を作りたがり、うたいたがる。
松山千春、さだまさし、桑田佳祐、矢沢永吉、浜田省吾、長渕剛、福山雅治みんなそうだもんね。みんな地方出身。それぞれ、東京への想いが違っておもしろい。

そんななかから1曲、というか2曲しか聴いたことがないので、そのうちの1曲

「東京」矢沢永吉
お得意のラブソングというか、クールな失恋ソング。
聴いたことのあるもう1曲は桑田佳祐で、この2曲ともどこか昭和40年代の歌謡曲のニオイがします。
どちらも東京ナイトが描かれていますが、雨の降っている桑田ヴァージョンのほうがより、歌謡曲っぽい。でも好きなのはカッコつけすぎのYAZAWAワールド。

矢沢永吉は平成5年、桑田佳祐は平成14年の歌。

さいごの3曲目も平成5年の歌を。

「東京」やしきたかじん
これは詞というか、設定がユニーク
大阪の女が、かつての恋人が生まれた街・東京を彼氏とダブらせてうたう女歌。

多分かつて東京の新小岩(なんで?)あたりで同棲してたんでしょうね、彼女。
なんとなく、そんな気がして。じゃなかったら祐天寺とか。発想が滅裂。

でもこういう詞は当事者(女性)にしか書けない。
実際作詞家は女性の及川眠子(ねこ)。
寡作だけれど、ほかにはWINK「淋しい熱帯魚」、「愛が止まらない」のヒット曲があります。
また、中森明菜「原始、女性は太陽だった」なんてうたもありました。
平塚らいてふの「元始、女性は太陽であった」をもじったのでしょうが、想像力の貧しいわたしは「原始」と聞いて、ピテカントロプスペキネシスを連想してしまいました。

それはさておき、さいごになりましたが、ザ・ピーナツ伊藤エミさんの訃報。
ショックでしたね。
多くの50代、60代の方々同様、わたしもテレビの「シャボン玉ホリデー」や「ザ・ヒットパレード」を見て、「悲しき16才」「恋のバカンス」を聴いて育ったんですから。
今回は間に合いませんでしたが、いつかきっと「感情的かつ偏執ピーナッツ・ワールド」をこのブログで。

そういえばピーナッツにもずばりではありませんが「東京」の歌がありました。
ヒット曲といえばなんといっても「ウナ・セラ・ディ東京」でしょうが、ジュリーのつくった「東京の女」ともどもそこここで流れているでしょうから、ここではあまり聴く機会のない「東京ブルー・レイン」(作詩:有馬三恵子、作曲:鈴木淳)で、伊藤エミさんのご冥福をお祈りしたいと思います。


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冬の歌①北国 [a landscape]

詩集北国 井上.jpg

♪雲が流れる 北国の街へ
 あなたが生まれた 心の国へ
 ………………
 みつめあう二人 抱きあう二人は
 離れられずに 強く 強く 強く 強く
 かわす口づけ
 ………………
 雲が流れる 湖のほとり
 あなたは 花に
 埋もれて 眠る
 北国のはて
(「北国の二人」詞:橋本淳、曲:井上忠夫、歌:ジャッキー吉川とブルーコメッツ、昭和42年)

寒波が来ております。
どうやら、今年もいつもと変わらない冬がやってきたようです。

で、かなり遅ればせながら「冬の歌」をば。

冬の歌。
テーマはイージーにも「北国」。とくに意味はなし。

「北国が冬かよ」というツッコミも聞こえてきそうです。
そうですたしかに。
「北国の春」(千昌夫)なんて歌もありますし、「赤いハンカチ」(石原裕次郎)の2番では、
♪北国の 春も逝く日
なんて出てきまして、これは完全に惜春鳥さえずる初夏。

奥村チヨ「北国の青い空」だって、ふんいきは隣の人が気になる秋。

それでも鈴木道明の「北国は寒いだろう」(マヒナスターズ)とか、粉雪舞いちる「小樽のひとよ」(鶴岡雅義と東京ロマンチカ)では、
♪北国の街は 冷たく遠い
と出てきたり。

というわけで「北国の冬」ということでここはひとつ。


といっても、「北国」ってどこのことなんだか、わかっているようでわからないようで。漠然と、「北」がつくから北陸とか東北とか北海道あたりだろう、なんて。
じゃ、北九州や京都の北山も「北国」かよ、ねんてまたツッコまれたり。
まぁご当地ソングとは真逆な不特定曖昧なロケーションというのも流行歌の常套手段ではあるのですが。
とにかくお国は寒い北の国、ということで。

そもそも「北国」という言葉、そんなにつかう言葉ではないのでは。
「いやあ、留守してわるかったな、ちょっと1週間ばかり北国へ旅行してたもんで」
なんてまずいわないし、テレビニュースでも、
「明日の北国は全般的に厚い雲におおわれ、午後からは……」
なんていうわけない。

ではどこでよくつかわれているのか。

おそらく圧倒的に多いのが流行歌。それも歌謡曲、演歌が主流で、J-POPではほとんど聴かない(というのは推測で、正確にいうと、さほど聴いてないからわからない。昭和を意識した楽曲ならあるかも)。
あとは小説や映画といった、つまりエンタメ系の世界。

ということは「北国」(きたぐに)は、比較的新しい言葉なのかもしれない。
江戸時代には「北国街道」があったが、これは「きたぐに」ではなく「ほっこく」。

やはり江戸後期の黄表紙で曲亭馬琴の「北国巡礼唄方便」も「ほっこく」。
最近読んだ大正期に書かれた小説の中に、
〈北国生れの彼が……〉
というところがありまして、軽く「きたぐにうまれ」なんて読み飛ばしましたが、ルビはなく、もしかしたら「ほっこくうまれ」なのかもしれない。

いまでも、辞書を引くと「きたぐに」では出てこないけれど、「ほっこく」なら「北国」で出てくる(いささか古い辞書ですが)。つまり「きたぐに」はスラング?

ではいつの頃からそのスラング「きたぐに」がつかわれるようになったのか。

これは明治大正の小説をすべてチェックするわけにはいかないので、流行歌に限らせていただきましょう(強引)。

流行歌の嚆矢といえば松井須摩子「カチューシャの唄」(大正3年)ですが、その3年後に流行ったのがやはり須摩子の「さすらひの唄」
♪行こか戻ろか 北極光(オーロ)の下を
という有名なうたい出しでご存じの方がいるかも。

それに続く歌詞が 「露西亜(ロシア)は北国はてしらず」で、これは「きたぐに」とうたっています。
作詞は北原白秋で、「ほっこく」ではなく「きたぐに」という言葉で、モダンさを織り込んだのかもしれません。

しかし、残念ながら白秋の「新語」は定着しなかったようで。

昭和初年からはじまる、ラジオとレコードによる「流行歌の時代」でもさほど出てきません。

唯一みつけられたのが昭和10年は大本教が政府の弾圧を受けた12月に発売された「さすらいの恋唄」(東海林太郎)
♪雪の北国 果てもなく 
といううたい出しで、さいごも
♪さすらい悲し いづこ行く どうせ北国 空の涯て

ただ、この歌も実際に聴いたことがないので、「北国」がはたして「きたぐに」だったのか「ほっこく」だったのかはわかりません(知っている方教えてください)。たぶん、「きたぐに」だろうと思うけど、「ほっこく」でもおかしくはない。

それ以外で「北国」という歌詞はみつけられなかった。ちなみに「北日本」なんていまじゃ聴けないスゴイ歌詞もあったけど。

ということは歌の世界でも「北国」つまり「きたぐに」が頻繁につかわれるようになったのは戦後ということになる。
わたしが知っている曲(ほとんどヒット曲)で「きたぐに」が出てくるのは昭和36年にこまどり姉妹がうたった「ソーラン渡り鳥」。作詞は石本美由起。ちなみに井上靖の詩集「北国」が出版されたのがその少し前の昭和33年。これは「きたぐに」と読むようだ。

歌謡曲でつぎに古いのが前述の「赤いハンカチで37年。
そして東京五輪の39年には三島敏夫「面影」にも出てくる。

しかし30年代はそんなもので、“北国ブーム”が起きるのは40年代から。

タイトルでみると
昭和40 北国の街(舟木一夫)
昭和42  北国の二人(ジャッキー吉川とブルーコメッツ)
昭和42  北国のチャペル(ランチャーズ)
昭和42 北国の青い空(奥村チヨ)
昭和43  北国は恋がいっぱい(畠山みどり)
昭和44  北国の町(鶴岡雅義と東京ロマンチカ)
昭和47  北国行きで(朱里エイコ)
昭和47  だからわたしは北国へ(チェリッシュ)

で、読み方はすべて「きたぐに」。

歌詞の中に出てくるのは
昭和40 函館の女(北島三郎)
昭和41 青い瞳(ジャッキー吉川とブルーコメッツ)
昭和41 尾道の女(北島三郎)
昭和42 小樽のひとよ(鶴岡雅義と東京ロマンチカ)
昭和43 スワンの涙(オックス)
昭和46 望郷(森進一)

などがありますし、さらに50年代になるとかの「北国の春」をはじめ、うたい出しに出てくる「熱き心」(小林旭)なんてビッグヒットもありました。

しかし、流行歌の主流が歌謡曲・演歌からポップスへうつるとともに、「北国」も瀕死の状態に。ほとんど聴いていませんが最近の演歌ではなんとか生きのびているのではないでしょうか。

そしていまだに、失意の男女が「北国」をめざしているのではないでしょうか。
そんな彼らはなにに乗ってわざわざ「凍える国」へ向かうのか。
飛行機だろうって? いやいや歌謡曲、演歌では飛行機はめったに乗らない。だいたいは列車ってことに。

その列車ですが、JRに大阪―新潟を結ぶ急行「きたぐに」というのがある。大阪を夜の11時過ぎに出て新潟に着くのが翌朝8時過ぎという、寝台付きの列車だそうで、そののんびり感がなつかしい。
その急行「きたぐに」が来年3月で廃止になるとか。
なるほどー、こうやってひとつの言葉が死んでいくのでしょうね。


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●谷間/番外篇 [a landscape]

ビルの谷間.jpg

谷間のおまけ。

実際の地形としての谷間ではなく、修辞的につかう「谷間」というのがあります。
………………。
いや、いまあなたが考えているその「谷間」ではないんです。
わたしはそういう人間ではありませんから。(ウソばっか。もはやバレバレ)

だいたい、あなたが考えている「谷間」なんか、歌になりませんし。

わたしが考えている「谷間」とは「ビルの谷間」のこと。

昭和20年代の後半から30年代全般にかけて、流行語とまではいきませんが「ビルの谷間」というフレーズが流行歌でよくつかわれていました。

というか、戦前から「ビル」あるいは「ビルディング(ビルヂング)」という言葉がモダンで軽佻浮薄の流行歌には欠かせない言葉だったのでしょう。

代表的なビルとしては、昭和4年の東京行進曲」(佐藤千夜子)にも
♪恋の丸ビル あの窓あたり
とうたわれた「丸ビル」。正式には「丸の内ビルヂング」で、大正末につくられたモダンの象徴的建造物。
地上9階というから、いまから考えれば郊外のマンションよりもはるか低い。これでも当時の建築基準ギリギリで、誰もが「スゲェー」と見上げた花の都のランドマークだったのです。

そのビルが一挙に巨大化したのが、いまでは高層ビルのベスト50にも入らなくなってしまった虎ノ門に近い霞が関ビル。
地上36階というから丸ビルの4倍。
そんな巨大建築物が東京オリンピックの翌年に出現したのだから、驚いたね、都民は。
まさに経済成長の象徴的建造物でした。

皮肉なことに、そのあたりから、つまり高層ビルが建ちはじめ、やがて林立していくようになると、なぜか流行歌の中の「ビルの谷間」は消えていきます。

では昭和の「ビルの谷間」はどのようにうたわれていたのでしょうか。

まず旧いところでは昭和29年、幻のシンガー・千代田照子がうたった「東京ワルツ」にでてきます。
♪ビルの谷間の 小さな陽だまり

この「ビルの谷間」は、ふたりの思い出の場所ですね。

余談ですが、YOU-TUBEにオリジナルがなく、井上ひろし盤もないので小柳ルミ子嬢に登場ねがいました。
でも2番間違えてますね。
♪七色の雨にうたう あゝ東京ワルツよ
と一番を重複してます。正確には
♪あの窓の思い出は あゝ東京ワルツよ
です。
そして最後も
♪雨のつゆ草
ではなく♪夢のつゆ草ですね。

好きな歌なのでついつい「アラサガシ」をしてしまいました。

当時としてはモダンな旋律は小坂一也の「座付作曲家」でもあった服部レイモンド。そしてかの時代の都会の青春模様を上手に綴った詞は「ひばりの佐渡情話」アキラ「さすらい」で知られる西沢爽。まだ新人で本名の義久で書いていました。

「東京ワルツ」に関してはもう少し能書きをたれたいのですが、まだ、先が長いのでこのへんで。

昭和30年代に入ると、男がうたう「ビルの谷間」が続出します。

まずは33年、超低音で女性をシビレさせた? 三船浩(近年亡くなりました)の「東京だより」

♪かるく車の アクセルふんで ビルの谷間を まっしぐら

主人公は地方から都会に出てきて、夜学に通いながら運転手として働く若者。
この頃は「僕は流しの運転手」(青木光一)とか「ハンドル人生」(若原一郎)などタクシードライバーの歌がトレンドのひとつだったので、この「東京だより」の青年も「運ちゃん」かもしれません。

母親への便りというかたちで自分の近況、そして東京見物をさせたいという孝行ぶりを吐露しています。
「東京見物」というのもこの時代のキイワード。

三橋美智也「東京見物」島倉千代子「東京だよおっ母さん」がヒットしました。
いずれも東京に働きに来てひと息つき、故郷の母親を東京観光に招待するという、孝行息子、孝行娘の話。
なぜか呼んでもらえるのは母親で、「東京だよお父っつあん」てのはない。
父親は田舎でお留守番? ならいいほうで、「東京だより」では死んでたり……。

その3年後の36年。
「ビルの谷間」ではありませんが「街の谷」が仲宗根美樹「川は流れる」に出てきます。
♪病葉(わくらば)を 今日も浮かべて 街の谷 川は流れる

これもヒットしました。
これは街の中を流れるほんとうの川をうたっています。
東京でいったら、隅田川か、目黒川か、神田川か。

♪思い出の 橋の袂(たもと)に 錆(さび)ついた 夢のかずかず
という名詞は「哀愁列車」(三橋美智也)「下町の太陽」(倍賞千恵子)横井弘

38年には北原謙二(この方も亡くなっています)の「ひとりぼっちのガキ大将」

♪ビルの谷間に 沈む陽も 燃えて明日は また昇る

子どもの頃は「お山の大将」だった男も成長すればフツーのサラリーマンに。
それでもいつか、子どもの頃のように部下を引きつれて「出世階段」の頂点に立ってやるという心意気がうたわれています。
いかにも激動の昭和30年代のサラリーマンを象徴した歌です。

北原謙二はカントリー&ウエスタン出身のシンガーで、大阪のジャズ喫茶ナンバ一番でスカウトされる前は、かの浪商(浪華商業高校)、それも野球部。ウソかマコトか同級の張本勲や山本集を差しおいて番長だったとか。

翌39年の田辺靖雄「二人の星をさがそうよ」では、

♪ビルの谷間の 小さな空にも 星は生まれる 愛の星

と。
田辺靖雄も洋楽(カヴァーポップス)出身で、デビュー当初は梓みちよとのコンビ、マイ・カップルポール&ポーラ「ヘイ・ポーラ」「けんかでデイト」をカヴァーしていました。

そのマイ・カップルに「12と13」という歌があります。
♪12と13 ふたりは友だち ただそれだけ
というワンフレーズだけを旋律とともに覚えています。

この歌、当時のテレビドラマの主題歌らしいのですが、実はドラマを見たことも、歌を聴いたこともないのです。
なのになぜ覚えているかというと、中学時代の遠足のバスの中で、クラスのマドンナがこの歌をうたったのです。わたしは特にマドンナに関心はなかったのですが(好きだったのは別のクラスの娘でした)、なぜか、この歌のワンフレーズだけが耳に残り、なんと半世紀ちかくも残りっぱなしになってしまったというわけ。

CDは昔出たようですが、いまではほとんど入手不可能。いまだフルヴァージョンで聴いたことがない。まぁ、別段どうしても聴きたいというわけでもないのですが。

田辺靖雄と聞くと、必ずこの「12と13」を思い出すという話。

もう完全に予定オーヴァー。でもあと1曲。

昭和も40年代に入り、昭和元禄などと呼ばれた「昭和の春爛漫」を過ぎてさらに50年代へ。

「東京見物」させたいほどの魅力的だった都会も、住みついて20年、実は享楽歓楽の街の素顔は実に冷たく味気ないものだと気づきます。
それでも離れられないのならば、それはその人たちにとって「魔性の街」なのかも。

そんな歌が「東京砂漠」内山田洋とクールファイブ
♪ビルの谷間の 川は流れない 人の波だけが 黒く流れていく

これ以後、「ビルの谷間」なんて言葉、あるいは言い方は聞かなくなりました。
さらに平成になった20年以上が過ぎ、もはや「死語」と化してしまっているのかもしれません。

ところで、はじめにふれた「あなたが想像した“谷間”」、そんな歌などないと思ったらありました、それも昭和30年代に。

「東京だより」でふれた三船浩の「男のブルース」(昭和31年)。
♪胸は谷間だ 風も吹く

と。しかしよくよく詞を読むと、これは「あの谷間」ではありません。
つまり地形的な隆起を意味する谷間ではなく、「淋しい場所」という意味でつかわれているようで。

月亭可長「嘆きのボイン」なんていうのもありますが、あれはモロママで、「谷間」なんてもんじゃないし。
じゃ、こんなのどうですか。「谷間」という直接的な言葉はでてきませんが。
これで谷間を想像するのはわたしだけ?


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●谷間/洋楽篇 [a landscape]

怒りの葡萄1939.jpg

From this valley they say you are going
We will miss your bright eyes and sweet smile
For they say you are taking the sunshine
That has brightened our pathways a while.
([RED RIVER VALLEY] Traditional)

ハンク・ウィリアムズHank Williams の「マンション・オン・ザ・ヒル」The Mansion on The Hill で失恋男が、かつての恋人が住む丘の上の邸宅を未練がましく見上げていたあばら家があったのは淋しい谷だった。

ブラザース・フォアThe Brothers Four のヒット曲「グリーンフィールズ」Greenfields でうたわれた、別れた恋人との思い出の場所も緑豊かな谷でした。

洋楽、おもにアメリカの歌ですが、こちらも「谷」がうたわれたのは、どうやら旧い歌のようです、おそらく。
もっとも新しい歌は知りませんが。

たとえが適当かどうか、いささか自信がありませんが、アメリカで西部劇が下火になっていくとともに「谷」の歌もフェイドアウトしていったような。
日本で時代劇がマイノリティになるのと比例して「谷」が消えていったように。違うかな。

そんな「谷の歌」で、いちばんはじめに耳をそばだてて聴き入ったのが3人兄妹のブラウンズThe Brownsの「谷間に三つの鐘が鳴る」Three Bells でした。
子どもの頃ラジオから流れてきたこの曲のヴァースの部分が新鮮でした。もちろん英語なのでどんな意味なのかわかりませんでしたが、その美しいハーモニーとジェントル・メロディーが心にのこりました。

三つの鐘とは、歌の主人公・ジミー・ブラウンが奥深い谷間の村で生まれた時、そして成長し結婚した時、それから老いて安らかな眠りについた時、の三度響いた教会の鐘のことだと知ったのはのちのこと。
長いようで束の間の人生を3度の祝福と哀悼の鐘でうたいあげた名曲。

この歌は1959(昭和34)年、ビルボードのカントリー部門で年間2位。
ただ曲調はカントリーというよりポップス。
それもそのはず、本歌は、1945年にエディット・ピアフEdith Piafとグループ、シャンソンの仲間Les Compagnos de la Chanson によってうたわれたシャンソン。
ピアフ版もブラウンズ版と雰囲気はさほど変わっていない。なお、ヴァースを担当しているのはピアフではなくシャンソンの友のメンバー。

ピアフとシャンソンの仲間は40年代にアメリカツアーを行っているので、それによってカントリーにアレンジされたのでは。

次の歌は「谷間の灯ともし頃」When it’s lamp lightin’ time in the valley 。「谷間の灯」とも。これも懐かしい。

都会に出てきた男が故郷である谷間の生家を偲ぶという内容。
窓から見える部屋の中では母親が息子の帰りを祈っている光景が見える。
それでも故郷は遠すぎて帰ることができない。でも母さん、いつか天国で会えますよと男は自分を慰めている。
といった内容の歌。

たしか中学校の音楽の授業で習ったような記憶が。
だからてっきり唱歌でアメリカ民謡(古い本ではそうしう表記もある)だと思っていましたが、つくられたのは1932年、昭和でいうと7年。
作者もはっきりしていて、クレジットにはジョー・リオンズJoe Lyons 、サム・C・ハートの2名と、グループらしいヴァガボンズThe Vagabonds が記されています。

日本に入ってきたのが、つくられた2年後の昭和9年。
前回でも少しふれましたが、流行歌手の東海林太郎がカヴァー。当時はアメリカ民謡として紹介されていました。そして、ほかには松島詩子もやディック・ミネもレコーディングしています。

つまりはじめは流行歌として日本に入ってきたのです。
しかし数年後日米戦争がはじまるや「敵性音楽」として封印されます。
そして敗戦により封印がとけると、なぜか流行歌ではなく「唱歌」あるいは「叙情歌」として再生してくるのです。不思議な歌です。

3つ目の谷間は、「ダウン・イン・ザ・ヴァレー」Down in the valley 。

これは正真正銘のトラディショナルソング。
1950年代後半から60年代にかけてポピュラー音楽の世界的潮流となったモダン・フォーク・ムーヴメントによって、多くのトラディショナルソングが復活しましたが、この「ダウン・イン・ザ・ヴァレー」もそのひとつ。

多くのフォキーたちがとりあげましたが、わたしがはじめて聴いたのはピート・シーガーのPete Seegerのヴァージョン。

ピート・シーガーにはほんとうにいろいろな歌を教えてもらいました。
また彼は世界の片隅にある歌をとりあげるのがうまいんだ。
有名なところではキューバの「グァンタナメラGuantanamelaがそうですし、かの「花はどこへ行った」Where have all the flower is gone も詞はロシア民謡をヒントにつくったといわれています。

ほかにもプエルトリコの「クェ・ボニータ・バンデラ」Que bonita bandera がそうだし、日本の「原爆を許すまじ」もちゃんと教えてもらったのはピートから。

ただ当時、歌詞カードがなかったのか、レコードからの聞き覚えのため、はじめはちょっとした誤解がありました。正確なうたい出しは、
♪ふるさとの 町焼かれ 身寄りの骨埋めし 焼け土に
なのですが、わたしの耳には、
♪ふるさとの 町あかり 身寄りの骨埋めし 暁(あかつき)に

と聴こえたもの。ピートの発音が……、いやわたしの耳がわるかったためでしょう。

余談はさておき、この「ダウン・イン・ザ・ヴァレー」、「バーミンハム刑務所」Birmingham jail という別名のタイトルがあるように実は「思い出のグリー・グラス」The green green grass of home や「ミッドナイト・スペシャル」The midnight specialなどと同様、囚人の歌なのです。
深い谷にある刑務所からシャバにいる恋人に、手紙を寄こしてくれと頼んでいる歌なのです。ということは、彼女は手紙をくれないわけですから、彼は愛想を尽かされたということかも。とにかく淋しい男の歌なのです。
トラディショナルソングってなぜだか、こういう淋しい悲しい歌が多いのです。

さいごの谷の歌もやはりトラディショナルソング。
やっぱり悲しい歌。別離をうたった「赤い河の谷間」Red river valley 。

これは多分、「ユー・アー・マイ・サンシャイン」You are my sunshine の次に覚えた英語の歌。当時のレコードはどこかへ消えてしまいましたが、たしか美しいハーモニーのサンズ・オブ・パイオニアーズThe Sons of Pioneers 盤だったような気がします。

いまでも、
Come and sit by my side if you love me
という歌詞が懐かしいメロディーとともに聴こえてくると鼻の奥の方がジーンとしてくるというフェヴァリットソングなのです。

レッドリヴァーはテキサスにあり、ミシシッピーに流れ着く川。
そこの谷間の集落での別離をうたったもの。
男性ヴァージョン、女性ヴァージョンがあり、また男がカウボーイだったり、女がインディアンの娘だったりと、さまざまなヴァリエーションがあるようです。

映画ではヘンリー・フォンダが主演したスタインベックの「怒りの葡萄」で何度も流れていました。

ではさいごにイカしたデュオで「レッド・リヴァー・ヴァレー」をもう一度。


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